こんにちは。本日は日中陶磁器貿易に関するお話です。
Korea Mokpo Sinan Shipwreck
中国が元の時代( 1271年-1368 )の1323年、 中国から日本の博多(及び京都)に向かっていた商船(貿易船)が 韓国の新安という場所の沖に沈没しました。それが 650年後である1970年代に引き上げられました。 新安船と呼ばれています。
新安船の一部と、交易品である当時の陶磁器や香木などが 韓国の木浦(モッポ/モクホ/Mokpo)の 海洋文化財研究所(博物館)に展示(常設)されています。
私は以前から宋の時代の商船がどのようなものだったのか気になっていて、木浦に元時代の沈船があると知り行ってみました。
目次
国立海洋文化財研究所の場所、行き方
木浦は韓国務安空港(ムアンMuan)からバスで1時間程の場所にあります。 務安空港は日本各地から飛行機の路線があります。(路線は2024年12月に再開)私は成田からチェジュ航空で行きました。約2時間です。
海洋文化財研究所 ウェブサイト
https://www.seamuse.go.kr/exhibition/mokpo_exhibition
ムアン空港からの行き方
バスの場合: ムアン空港 - 木浦バスターミナル - 海洋文化研究所またはホテル
タクシーの場合: ムアン空港 - 海洋文化研究所またはホテル
私は空港の到着ロビーに出た時には、バスの出発時間になっていました。バスの券売機もその便は発売終了。だめもとで、バス停に走っていくと、まだバスがいて、現金を支払い乗せてもらいました。
タクシーでも行けますが、ローカル体験と経済性の点でバスを選びました。降りる場所も最終駅( 木浦バスターミナル )なので安心です。
木浦バスターミナルからはタクシーで宿泊先のフォンタナ ビーチ ホテルに行きました。ホテルからは海洋博物館は徒歩数十分、海岸線を通ってのんびり歩くのも良いと思います。
「新安船」で運ばれたもの
「中国の輸出陶磁器25,000点と金属工芸品、そして東南アジアの香辛料と胡椒、高麗の青磁や青銅鏡、日本の漆器や陶磁器など全部で26,000点が積まれていました。」 とあります。
新安船の航路
中国の寧波から博多(及び京都)へ向かっていて、高麗の新安沖で沈みました。
考古学の先生によると、新安沖のこの辺り(地図の青丸のエリア)は船の墓場と呼ばれ、沈没した船が多いそうです。 (アフリカの船の墓場の記事はこちら)
(現在の寧波は、唐代は「明州」、南宋から「慶元府」、元代は「慶元」と呼ばれていたとあります)
日本の茶祖 栄西が乗った宋の商船
宋の商船が気になっていたのは、「喫茶養生記」を記した栄西が、1回目の渡航 1168年 に博多から中国に渡るために乗ったのが宋の商船だったからです。「 喫茶養生記」は日本で初めて書かれたお茶の専門書として知られています。また栄西は日本の茶の始祖としても有名です。
(栄西資料:ツムラ漢方記念館)
栄西はのちに臨済宗の開祖となりました。栄西の時代は、遣唐使船のような国が手配する留学船はありませんでした。
栄西のころと新安船は少し時間の隔たりがありますが、 ルートは同じ博多-寧波 。 この展示を見て栄西が乗った船のイメージができました。
新安船にも日本の僧侶が乗っていたようです。下の展示資料では中国人 、高麗人 、日本人( 商人、僧侶) が乗船していたことが分かります。
積荷の箱の中の荷札
それぞれの積荷の箱の中に荷札(行き先、注文者)の札が入れられていました(木簡) 。京都、東福寺宛の品が多かったとのことです。
ここで、注文主は商品をどの程度具体的に注文していたのか疑問に思いました。
「青磁の茶碗30点」など大まかだったのでしょうか。見本があったのか、形、大きさ、模様、窯の指定などはあったのか…。到着した時に、注文の品と違うことでトラブルなどはなかったのか…など仕事柄気になりました。
日本の香の歴史の原点 流れ着いた香木
日本の香の歴史で、最初に文献に登場する香は香木です。日本書紀に、推古3年(595年) 「沈水、漂着於淡路嶋(淡路島に沈水香木が流れ着いたと)」とあります。これが難破した船の積荷だったと言われています。
難破船や香木の貿易のイメージが難しかったのですが、今回新安船をみて、イメージが掴めました。時代は700年も差がありますが、香木が商品だったこと、どのように運んできたかなど参考になりました。
文化の回流、めぐり
”「中世の日本での中国文化ブーム」「当時の日本人は暮らしの中にお茶、香料、花、装飾、宗教を受け入れた」「東アジアは交流を通して文化を共有」” と説明がありました。
現代も中国、韓国、日本では文化の共有は続いています。東アジアの大きな文化のめぐりと共有はこれからの時代もずっと続いていくのだろうと感じました。
新安船の香炉 , 香道具、 香木
ソウルの国立中央博物館の収蔵品データベースから新安引揚文化財に関係するものにはリンクを貼りました。
展示品の説明には (元:13世紀後半~14世紀前半) とありました。
青磁小香瓶、香木、木製香箸 、銀製香炉
新安船の陶磁器は龍泉窯のものが半分以上占めているとのことです。
続いて下は、貼花牡丹文香炉、青磁八卦文香炉、 青磁三足香炉 、香立て など。
下の上段に3つある三足香炉は 日本では袴腰香炉(はかまごしこうろ)と呼ばれています。 袴腰香炉は、中国では鬲式炉と呼ばれます。(鬲 (れき)は古代中国の青銅器の一つです) 宋の時代は古代商周の器形を真似て作ることが流行したようです。
袴腰香炉は東京国立博物館、根津美術館、東京富士美術館などにも収蔵されています。
下段の樽式八卦炉も元代の龍泉窯の典型的な香炉の一つと言われています。(参考)。
香炉の圏足(高台)が高く、3つの足が浮いていいます。 中国では吊脚三足香炉と呼ぶ場合もあるようです。日本では、三足が浮いた千鳥香炉が徳川美術館に収蔵されています。
この千鳥香炉は天正二年(1574年)の織田信長の茶会(上様御会)で今井宗久、千宗易、 津田宗及に披露されたと、天王寺屋会記に記録されています。
新安船の茶器、茶道具
青磁花文盌,青磁盞托、青磁花形盞
青磁盞托。形も良く、色も美しく、茶器の展示はしばらく眺めていたかったです。
青磁花形盞 。こんなに可愛いものを使っていたのだと驚きました。釉色、形、艶、高台から見える土。素敵でした。
馬上杯は現代では茶道の茶碗で使われています。ある茶道の先生は、「馬にちなんだ端午の季節や、流鏑馬(やぶさめ)にちなんで使うこともありますよ」と教えてくれました。(馬上杯は中国では高足碗や高足杯とも呼ばれています)
馬上杯は、当時お茶に使われていたのか、陶磁器研究の方にお尋ねしたところ、室町時代、桃山時代は使ってない。東福寺などのお寺が注文していたなら、祭器、お供え物を盛るのに使ったのでは?とご意見をくださいました。
下は、黒釉碗。新安船の器の中に黒釉の器の割合は低いとのことす。この黒釉が建窯のものでしょうか。
現代でも福建省建窯では黒釉の茶碗、 茶盞が作られていて、2019年5月には東京で建盞作家さんの作品展示会がありました。
青磁馬上杯、青磁陽刻蓮瓣文盌、青磁藥硯 (Mortar and pestle)
青花(染め付け)の器
元の時代に始まったと言われる、白地に青で模様が描かれた青花 (qignhua)の器がありませんでした。青花は日本でいう染め付けです。青磁、白磁を見て、心の落ち着き、奥深いものを感じていましたが、そういえば青花がない…と気が付きました。青花は気持ちを外に向かわせるような対照的な印象です。
その後、1323年には青花磁器まだない時代だったのだろうという、新安船研究結果を読みました。
新安船の花器 文具
花器も目を奪われるものがたくさんでした。整理して載せたいと思います。
新安船の構造と船倉
こちらが全体像です。
船艙部は壁で区切られていて、陶磁器の積荷が見えます。 模型もよく出来ていて、魅力ある展示への工夫が随所でみれました。
船底に銅銭。以下リンクのソウル国立中央博物館説明より抜粋です。
”新安沈没船には重量28トン、およそ800万枚を超す銅貨が積まれていた。日本では平安時代の皇朝十二銭を廃止後、貨幣鋳造が行われず、中国から大量の銅貨が輸入され国内に流通。唐・宋・元代に制作の銅貨が大部分含まれている。 ”
下は実際の新安船の大きさの鉄骨と、引き上げたれた船体の一部(船材)。人が立っているので大きさが分かります。
海底での様子
海底に散らばる交易品の様子 。ほとんどが木箱に入ったまま。このようなディスプレイで実感がわきました。
この博物館に来て、水中考古学という分野があることを知りました。ランドール・ササキさんの「沈没船が教える世界史」 を読み、新安船の他にも世界の沈没船について知りました。
引き揚げ作業の様子
1970年代の新安船の引き揚げの様子がパネルと模型で展示されていました。美しい器の展示を見た後に、その厳しく困難なプロジェクトを知ることになりました。長年に渡った、また潮流などの関係で、一日のうち限られた時間のみ行わる作業だったようです。この展示にたどり着くまでの、途方もない時間と多くの人の苦労を知り、より重みを感じました。
以上大変興味深く勉強になった展示でした。
残念なことに 木浦 には1泊しかできず、じっくり鑑賞する時間がありませんでした。次回はこの博物館を目的にもう一度木浦に行きたいと思っています。木浦は少なくとも2-3泊は滞在したい、のんびりできる良いところでした。